Sweet Dreams のレビューの前に、ちょっと気になる記事があったので載せます。
「Wrecks」 についてです。
The Guardian 12月7日 「Right of reply by Neil LaBute」 (反論の権利 とでも訳せばいいのでしょうか。)
11月27日付の「Observer紙」においてポーラ・シールズは、以下のような記事を書いている。
コークのエブリマン・パレス・シアターで上演中のニール・ラビュートの舞台「Wrecks」について、愛と死についての’動く瞑想’で、結末のオイディプス的近親相姦関係に’納得がいかないという’反響によって、その評価を安っぽいものにした。
「Guardian紙」の演劇欄にはカレン・フリッカーは「挑発以上の意味を見出すのはむずかしい」と書いた。
ラビュート監督は反論する。
記事についての返答というのはばかげたことなのだが
ディナーパーティーが嫌いな隣人たちばかりを招いて、次の日に料理はうまかったかどうか聞くようなものだ。そういうときに隣人たちの意見は意外な展望を見せてくれるだろう。
そういう友人たちの家を訪問するのは価値のあることだろうか(自宅にいたほうがよっぽどいい)。ドアベルを鳴らし、一発ずつ顔を殴ってくるか?
今私がやろうとしていることは、たぶんそういうことかもしれない。
いくつかの記事は、私の新作「Wrecks」についてギリシャ演劇の(とくにオイディプス王の)影響を障害として取り上げている。彼らはエド・ハリスの演技については賞賛し、寛大である。実際、彼はすばらしいからだ。
記事は、この劇の最後の部分のドラマティックな変貌を、子供っぽくて単純で無用なものだといっている。
この件に関しての彼らの意見については、私も認める。そして、彼らの意見全てが彼ら自身の意見に根拠を置くものだと信じるものである。
しかしながら、私にとっては、「可能性」の世界、というものが興味深いのだ。
脚本を書くにあたり、私は自分の呼び声ともいえるものが、今まで見たことも聞いたこともない未知の土地の観客たちに伝わるということを感じる。
私はドキュメンタリーを書いているわけではない。私の仕事は新たな疑問を意外な方向から提示することで、同様の方法でその疑問に何度も何度も答えることだ。
この演劇で主題となる疑問は、30年もの間実際はほかの誰かを愛していたのか?ということだが、これは、少なくとも劇場内では危険思想ではない、問うべき価値のあることだろうと思う。
もし劇場でいけないとしたら、どこでならいいのだろう?
この企画を作るにあたり、誰も実際に母親と近親相姦関係を持ったものはいない。
そのことを確認しておきたい。
カレン・フリッカーは、監督としての私が、観客がこのキャラクターを好きになってくれるように仕向け、その後「ショッキングでおぞましい」彼の行動を提示したことについて、かなり動揺したらしい。
明らかにフリッカーは、自分が寄稿した新聞をちゃんと読んでいない。
「Guardian紙」は、一週間のうち休日もなく7日間、もっともっと恐ろしいことについて記事を掲載しているのに。
私は「自分の作品に対する責任」について要請を受けてきた。それについて私が言えることはこれだけだ。
ほうっておいてくれ。私が責任を負うべきは、私の作品の登場人物に対してだけだ。
評判、良くなかったらしいですね。
ストーリーも大体見えるような。
でも、エド様は批判されてはいないらしいです。。。。
それにしても水掛け論っぽい。
あんまり嬉しい記事ではないですね。